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ハンガリー語は最初から完璧でなくていい?

   1848年の英雄たちが教えてくれる学びの勇気

完璧じゃなくても伝わる:ハンガリー革命と

「学びながら話す」人々の物語

ハンガリー語は、昔から「みんなが当たり前に話していた唯一の言語」だった―そう思われがちです。けれど実際には、1848年の革命期でさえ、ハンガリー王国は驚くほど多言語的な社会で、首都ペシュトブダ(首都はまだ統合していない)でもドイツ語をはじめ複数の言語が日常的に使われていました。


しかも興味深いのは、歴史に名を残す政治家や軍人の中にも、幼いころからハンガリー語一筋だったわけではない人が少なくなかったことです。それでも彼らは学び、伝え、行動し、そして人々もまた、多少の訛りや不完全さがあっても、その言葉に耳を傾けていました。
日本語母語話者にとってハンガリー語は難しく感じられることがあります。ですが、もし19世紀のハンガリーで、言語の違いを越えて人々が革命を動かしていたのだとしたら、「まだ上手に話せないから」とためらう必要は、実はあまりないのかもしれません。


1848年のハンガリーは「単一言語の国」ではなかった
1844年11月にハンガリー語は公用・官用語になりましたが、当時の約1300万人の住民のうち、ハンガリー語を母語とする人は46%にとどまっていました。
さらに革命と自由戦争の時期、ペシュトブダの住民のうちハンガリー系は約30%で、半数以上がドイツ語話者だったとされます。

だからこそ、1848年3月の革命で『国民の歌(Nemzeti dal)』がすぐにドイツ語へ訳されたのは、国外向けの宣伝というより、首都の人々自身に出来事を理解してもらうためでもありました。

Nemzeti dal- 国民歌(一部)

起てよ マヂャル人 祖国は叫ぶ!
時は来れり 今か 再び来らず!
奴隷になるか 自由になるか?
汝ら この両者のいづれかを選べ!
我ら マヂャル人の神に
祈誓する
我らは 二度と奴隷にはならぬと
祈誓する!

(ペテーフィ・シャーンドル 作)今岡十一郎/訳

ハンガリー王国の民族たち:ハンガリー人、スロバキア人、ルスィン人、ルーマニア人、セルビア人、クロアチア人

(写真:ハンガリー王国の民族たち:ハンガリー人、スロバキア人、ルスィン人、ルーマニア人、セルビア人、クロアチア人)

当時の都市では多言語使用は特別なことではなく、掲示や告知は複数言語で出され、必要があれば仲介役や通訳的な役割を果たす人が自然に存在していたのです。

この点は、現代の外国語学習者にとってとても励みになります。言語がひとつに揃っていなくても、社会は動き、文化は育ち、人と人は理解し合おうとしていたからです。


名だたる政治家たちも、最初から完璧ではなかった
1848年4月に成立したバッチャーニ内閣では、9人の大臣のうち少なくとも4人、つまりBatthyány Lajos(バッチャーニ・ラヨシュ)、Eötvös József(エテウェシュ・ヨージェフ)、Esterházy Pál(エステルハーツィ・パール)、Széchenyi István 鎖橋を建てた人物、(セーチェーニ・イシュトヴァーン)は、ハンガリー語を母語として育ったわけではありませんでした。
それでもこの時期には、彼らはすでに公的な議論をハンガリー語で行える水準に達していました。

Eötvös József (エテウェシュ・ヨージェフ)はその代表例です。彼は1839年にはすでにハンガリー語作家として高く評価されていました。つまり「後から学んだ言語」であっても、そこから思想を表現し、文学にまで到達できることを示してくれる存在です。

Batthyány Lajos(バッチャーニ・ラヨシュ)もまた印象的です。ドイツ語に加え、フランス語、イタリア語、英語でも意思疎通ができた一方、1839年に初めて上院で発言した際には、速記者から「非常に優秀で教養があるが、ハンガリー語にはあまりうまく対処できていない」という趣旨の記録を残されています。秘密警察の報告には、秘書がハンガリー語に訳した原稿を覚えて、ややぎこちなく演説しているとも書かれていましたが、革命期には首相として以前よりずっと上手にハンガリー語を使えるようになっていました。

そして Széchenyi István(セーチェーニ・イシュトヴァーン)、いわゆる「最も偉大なハンガリー人」も、子ども時代にはハンガリー語よりドイツ語に接する機会が多く、オーストリア軍将校時代にはハンガリー語力がさらに弱まっていたと記されています。彼は生涯、日記の大半をドイツ語で書き続けましたが、1820年代以降には大きな努力を重ね、ハンガリー語の演説家・論者になろうとしました。

ここから見えてくるのは、「偉人=最初から言語的に完璧」という図式が必ずしも成り立たないことです。むしろ、学び直し、努力し、少しずつ自分の言葉にしていった人々が、近代ハンガリーの中心にいたのです。

ハンガリー国会、1839年ポジョニ市、現在ブラチスラバ

(写真:当時のハンガリーの国会--現在のブラチスラバ市)


戦場でも、多言語は“障害”ではなく“前提”だった
多民族国家ハンガリーの中で編成された honvéd 軍(祖国を守る軍)では、建前として指揮言語はハンガリー語でしたが、実際にはドイツ語が使われ続ける部隊も少なくありませんでした。特に帝国軍から合流した部隊や、スロヴァキア系兵士の多い歩兵連隊、帰還したフサール部隊では、兵士たちにとってより馴染みのあるドイツ語の服務言語が維持されたとされています。

高級将校でも事情は同じで、多くの将軍は複雑な軍事命令を出す際、ハンガリー語よりドイツ語を選びました。総司令官 Görgei Artúr (ゲルゲイ・アルトゥール)でさえ、1840年代に意識的かつ成功裏にハンガリー語を学び直したにもかかわらず、指揮命令の多くをドイツ語で記していました。

また、後のアラドの殉教者たちの中にも、民族的にも言語的にも多様な背景を持つ人物が多くいました。Leiningen-Westerburg Károly (レイニンゲヌ・ヴェステルブルグ・カーロイ)は、兵士たちに向けて使うハンガリー語の文が「まるで機械翻訳のようだ」と形容されるほど不自然だったにもかかわらず、兵たちから熱狂的に歓迎されたと伝えられています。

Bem József (ベム・ヨージェフ)にいたっては、ハンガリー語をほとんど話さず、フランス語とドイツ語を主に使っていたとされます。

それでも自由戦争の現場で深刻な機能不全が起きなかったのは、人々が異なる言語に慣れており、互いに合わせる姿勢を持っていたからだと歴史家は説明しています。
これは語学学習の観点から見ると、とても大切なメッセージです。大事なのは「完璧な発音」や「母語話者らしさ」だけではなく、相手に届こうとする意思と、それを受け止めようとする共同体の側の寛容さなのです。


「話し言葉」はどう残るのか―語る裁判記録が教えてくれること
今回のテーマで特に面白いのが、語る裁判記録)と言う資料からの視点です。研究者たちは、1890年以前には当然録音がないため、人々が実際にどう話していたかを、私信や裁判記録、特に16〜18世紀の魔女裁判の調書などから探っています。

こうした記録は、形式ばった公文書よりも、日常の言い回しや口論、脅し文句、感情のこもった表現を残している可能性があります。
そのため、自然な話し言葉に近いハンガリー語の歴史を知るために、私的書簡や訴訟資料が非常に重要なのです。

研究拠点では、1772年以前の手紙や訴訟文書を集めた「歴史私生活コーパス」も整備されていると紹介されています。
また、劇作品や回想録も、対話形式や没入的な叙述のために、話し言葉へ近づく手がかりになると考えられています。

この話がなぜ初級学習者にも関係するのでしょうか。それは、言語とは最初から辞書や文法書の中に完成形で存在しているのではなく、実際に人が迷いながら話し、書き、通じ合おうとする中で見えてくるものだからです。

さらに資料では、19世紀は言語改革、標準語形成、そして多民族社会の中で多くの人が新たにハンガリー語を習得した時代でもあり、そのこと自体が言語変化を生んだ可能性があると指摘されています。
つまり、学習者の存在そのものが、言語の歴史の一部なのです。

だから、たどたどしいハンガリー語でも大丈夫
資料の中でも特に心に残るのは、当時の社会がハンガリー語学習者に対してかなり寛容だったという指摘です。独立や国民意識への共感が広がる中で、強い訛りや、現代人の耳には少し滑稽に聞こえるような発音で話す人に対しても、人々は歓声を送っていたと説明されています。

これは、今ハンガリー語を学び始めた日本人にとっても、大きな励ましになるはずです。語順で迷っても、格変化を間違えても、アクセントが日本語らしくても、まずは話してみることに意味があります。

1848年のハンガリーでは、多言語社会の中で、人々は翻訳し、言い換え、助け合いながら前へ進みました。
完璧ではない言葉でも、誠実な言葉なら届く―その感覚は、今の私たちの語学学習にもそのままつながっています。


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